1863年に起きた3つの事件:下関戦争、薩英戦争、八月十八日の政変について学んでいきます。
1.きっかけ・情報源
幕末・維新・明治初期をしっかりと学ぼうと毎回見ているNHK大河ドラマ『青天を衝け』。
これまで、4回目の日米和親条約、8回目の日米修好通商条約、9回目の桜田門外の変、10回目の坂下門外の変、11回目の文久の改革を取り上げてきました。
今回は第12回目。尾高兄弟の会話(下記参照)から読み取れた3つの事件:下関戦争、薩英戦争、八月十八日の政変を取り上げます。
尾高惇忠(田辺誠一さん)
「薩摩や長州もイギリスやフランスと立派に戦ったと言うではないか」
尾高長七郎(満島真之介さん)
「立派?立派どころか薩摩はイギリスの軍艦に打ち込まれ、もう攘夷を捨てた。・・・・長州も、攘夷派の公家衆もみな京から追い出され・・・」
今日の写真と地図
↓「土蔵相模跡」(東京都品川区)。土蔵造りの相模屋という旅籠屋。幕末志士たちの溜り場になっていたとのこと。英国公使館焼き討ちを行った長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上馨らは、ここから焼き討ちに出かけたそうです。のちの首相や外相が焼き討ちとは信じられません・・・。英国公使館焼き討ちは、文久の改革と下関外国船砲撃事件の間に起こりました。現在は看板のみです。
↓京浜急行線「北品川」駅直ぐ。JR「品川」駅からは徒歩12~3分です。
↓東京都内の名所はこちらから。
insearchofjapan.hatenablog.com
2.学んだこと
①下関戦争とは?(1863年5月)
1863年5月に、下関海峡を通っていたアメリカ商船(商船merchant ship)、フランス軍艦(軍艦battleship)、オランダ軍艦に砲撃を加えた事件。
この後、これを受け、アメリカ軍、フランス軍による攻撃を受ける。翌年8月には、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊から下関が砲撃を受けました(四国艦隊下関砲撃事件)。
この一連の事件が下関戦争。
和議交渉にあたったのが高杉晋作だったらしいです。長州藩はこの件で攘夷が難しいことを理解。
<参考>
↓みもすそ川公園。当時の砲台のレプリカがある場所。
↓こちらも参照。1863年5月の事件は長州藩外国船砲撃事件、1864年8月の事件は四国艦隊下関砲撃事件と記載されています。
②薩英戦争とは?(1863年7月)
1862年に起きた生麦事件の後、この犯人引き渡しや賠償などを求めたイギリス艦隊と薩摩藩の間で1863年7月に起こった戦闘。
双方に被害が出るも、これを機に薩摩藩は攘夷が難しいことを理解。和解交渉にあたった(和解交渉したnegotiated a settlement)のが大久保利通。
<参考>
↓鹿児島県HP。薩英戦争。
↓コトバンク。薩英戦争。
③八月十八日の政変(1863年8月)
過激な尊王攘夷運動を行っていた長州藩士と公家が京都から追放された(追放されたpurged)事件(1863年8月)。
<参考>
3.コメントと参考英語動画
『青天を衝け』第12回で取り上げられていた横浜焼き討ち計画は、1863年の11月に実行する計画だったそうです。
冒頭取り上げた会話は実行計画の数ヶ月前。確かに①②③の各事件が起こった後ですね。
尾高惇忠(田辺誠一さん)
「薩摩や長州もイギリスやフランスと立派に戦った(①下関戦争発端が1863年5月。②薩英戦争は1863年7月)と言うではないか」
尾高長七郎(満島真之介さん)
「立派?立派どころか薩摩はイギリスの軍艦に打ち込まれ、もう攘夷を捨てた(②薩英戦争は1863年7月)。・・・・長州も、攘夷派の公家衆もみな京から追い出され(③八月十八日の政変は1863年8月)・・・」
『青天を衝け』第12回紀行では、横浜焼き討ちの前に乗っ取りを計画していた高崎城跡と一連の計画を話し合っていた尾高惇忠の生家が紹介されていました。
↓尾高惇忠の生家についてはこちらからも。
insearchofjapan.hatenablog.com
↓JapanSocietyNYC。渋沢栄一:日本の倫理的資本主義と持続可能性の精神。10:26~横浜焼き討ち計画について触れられています。
4.全国通訳案内士試験問題:下関戦争・薩英戦争・八月十八日の政変関連
歴史2019-14:江戸時代、神奈川、山口
2019年(令和元年)の全国通訳案内士筆記試験「日本歴史(問題番号14)」の選択問題の一つで、「生麦事件と四国艦隊下関砲撃事件の両事件に関する理解」を問う問題がでていました。
ランキング参加してます↓
5.ブログ内リンク(トップページ含む)