この本を読んで学んだ3つのこと:渋沢栄一と徳川慶喜の関係、渋沢栄一と歴史上の人物の関係、勝海舟がなぜ新政府で要職を長く務めなかったのか?を紹介します。
1.きっかけ・情報源
今年は大河ドラマ『青天を衝け』を見ながら、幕末から明治初期をじっくりと学んでいきたいと思っています。でも、渋沢栄一について少しずつ分かってくると新たに2つの疑問!?が出てきました。
渋沢栄一が亡くなったのは92歳のときで1931年。なんと昭和6年です。ですから、明治初期だけではなくて、その後の明治時代はもちろん、大正時代も、さらに昭和時代初期までの歴史を網羅できるはずです。大河ドラマがどこで終わりを迎えるのかは分かりませんが、この機会にもう少し長い歴史を学べるはずです。
もう一つは、渋沢栄一と徳川慶喜との関係です。家臣になって、パリに行って、戻ってきて静岡で再会、くらいの話は先日読んだ『論語と算盤』でも分かったのですが、その後ははたしてどういう関係だったのか??慶喜が亡くなったのは1913年ですから、大政奉還の1867年、栄一がパリから帰国した1868年、からは45~46年もあります。
この2つの点を学ぶのにいい本がないか、と書店の渋沢栄一コーナーでぱらぱらと見た中でこれはいいのでは!と思ったのがこの本『渋沢栄一と勝海舟』でした。
今日の本:『渋沢栄一と勝海舟』
渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘 (朝日新書)
↓『論語と算盤』についてはこちら。
insearchofjapan.hatenablog.com
2.学んだこと
本の内容紹介
「渋沢栄一と勝海舟と徳川慶喜」としてもいいくらい、3人の物語です。以下の6章立てです(:以下は読んでみて把握した内容です)。1917年は大正6年です。
1章 栄一と慶喜の信頼関係の始まり:渋沢栄一の生い立ちと慶喜との初期関係
2章 そりが合わない海舟と慶喜:勝海舟の生い立ちと慶喜との初期関係
3章 栄一と海舟の出会い:幕末・明治維新での2人の慶喜との関係と2人の出会い
4章 幕臣が支えた近代国家:明治初期~1870年前半の2人の明治政府との関係
5章 海舟への不満が募る栄一:1880年後半あたりまでの3人の関係
6章 名誉回復への道のり:海舟死去1899年、慶喜死去1913年のあと1917年位まで
①渋沢栄一と徳川慶喜との関係について
渋沢栄一が徳川慶喜には非常に忠義を尽くしていたことが本当によく分かりました。
慶喜に仕えてから、抜擢されて得意分野で能力を発揮する機会を与えられたこと、パリ万国博覧会に慶喜の名代としていくことになった異母弟:昭武のサポート役として欧州を見る機会を与えられたこと、帰国した栄一の身を案じて静岡に留まらせたこと、など慶喜の配慮に強い感謝の思いがあったようです。
また、疑問に思っていた、静岡で会ってからの慶喜との関係は?、についても非常に細かく書かれていました。
頻繁に慶喜と会っていたほか、朝敵Emperor's enemyとなってしまった慶喜の名誉を回復するrestore the reputationために自らの人脈を使って動いていたことが分かりました。結果、1902年(明治35年)に慶喜は、徳川宗家とは別に徳川慶喜家が認められ、当時の爵位の最高位である公爵title of dukeも授けられています。
栄一は、1913年(大正2年)に慶喜が亡くなった後も、慶喜公の伝記biographyの作成(1917年に完成)やその名誉回復のための講演などに注力していたことも分かりました。
↓徳川慶喜公についてはこちらでも。
insearchofjapan.hatenablog.com
②渋沢栄一と歴史上の人物との関係について
渋沢栄一は経済の人と思っていましたが、政界にもこんなに様々な人との関わりがあったのだ、ということが分かり、非常に興味深く読めました。
本書で登場していた主な政界の人物は以下のとおり。
↓松陰神社(東京都世田谷区)の石燈籠(いしどうろう)stone lantern。手前から、伊藤博文、山県有朋、井上馨、桂太郎から奉献されたもの。
↓東京の松陰神社についてはこちらでも。
insearchofjapan.hatenablog.com
③勝海舟が政府要職を長く務めなかった理由
勝海舟は、明治政府から何度か要職への就任要請を受けながら固辞したり、就任後すぐに辞任したり、といったことを読んだことがあり、なぜだったのだろう?と思っていました。
でも、この本を読んで、かなり納得できる部分がありました。
海舟は、徳川家の一部や幕臣からは(新政府と連携して幕府を倒して)幕府を裏切った人間、明治新政府からは幕府を代表している人間、という微妙な立場に置かれていたということ、それゆえ、どちらの立場にも大きく振れることができなかったようです。
一方で、生活に困窮した幕臣を援助したり、明治新政府のために有能な幕臣を紹介したり、その立場を利用して双方のために活動していたことも分かりました。
理不尽な慶喜からの指示や言動はあって?複雑な思いはありつつも、慶喜の名誉回復に亡くなるまで尽力し続けた(そのかいあって慶喜の名誉回復もなった)こともよく理解できました。
海舟が亡くなったのは、1899年(明治32年)。その1年前の1898年に、慶喜は初めて明治天皇と謁見できたそうです。
↓墨田区役所(東京都墨田区)の勝海舟像。勝海舟は墨田区出身。
3.コメント
本を読むときは、あとで要点だけを素早く見返せるように黄色の蛍光ペンでマーカーするのですが、黄色のページがないくらい多くの知りたい情報、興味深い情報がありました!
今日のアド街は、渋沢栄一が晩年約30年間、自宅を構えていた飛鳥山(東京都北区)でした。桜や牡丹の咲くころには、こちらの邸宅に徳川慶喜公も招待していたそうです。
↓飛鳥山の旧渋沢家飛鳥山邸。旧邸宅の一部や庭園、史料館などがあります。銅像もあります。
4.その他(全国通訳案内士試験問題:渋沢栄一関連2問)
歴史2019-15:明治、東京、埼玉、人物(渋沢栄一)
2019年(令和元年)の全国通訳案内士筆記試験「歴史(問題番号15)」で、「第一国立銀行の初代頭取を務め、・・・幅広い分野の企業創設、育成に携わった、現在の埼玉県出身の実業家は誰か」を問う問題が出ていました。
歴史2015-18:明治、東京、埼玉、人物(渋沢栄一)
2015年(平成27年)の全国通訳案内士筆記試験「歴史(問題番号18)」で、「渋沢栄一が経営に参画し支援した学校:商法講習所が、一橋大学の前身であること」の理解を問う問題が出ていました。
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