西郷隆盛は、大久保利通、木戸孝允と並ぶ維新の三傑three heroes of the Meiji Restorationの一人です。今日は西郷隆盛に関する名所を学んでいきます。
1.きっかけ・情報源
幕末・維新・明治をしっかりと学ぼうと毎回見ているNHK大河ドラマ『青天を衝け』。
前回第33回では、西郷隆盛がいわゆるナレ死しました(ナレ死とは、場面が出ないでナレーターの声だけでその死が紹介されること)。
以前の大河ドラマ『龍馬伝』と『西郷どん』で西郷隆盛にはかなり学ぶことができました。大河ドラマさまさまです。
今回は西郷隆盛の生涯に沿って関連する名所を学んでいきます。
今日の写真と地図
↓JR「田町」駅から第一京浜沿いを歩いていくと右手にこの碑が見れます。1868年3月、江戸城無血開城を決めた西郷隆盛と勝海舟会見の地(東京都港区)。
2.学んだこと
①生まれ育ったところ
西郷隆盛(吉之助)は1828年に現在の鹿児島県鹿児島市で生まれました。
大久保利通(一蔵)とは幼馴染。
<参考>
↓かごしま市観光ナビ。
②島津斉彬に取り立てられる
『西郷どん』では渡辺謙さんが演じていた島津斉彬(しまづなりあきら)。
島津斉彬は当時の薩摩藩藩主。西洋文化や軍装備を積極的に採り入れ、江戸では水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)と連携して、徳川斉彬の息子(徳川慶喜)を将軍にしようと画策。
この画策を斉彬の指示で行っていたのが西郷吉之助。松平春嶽の下にいた橋下佐内とも連携。
徳川斉彬は『西郷どん』では伊武雅刀さん、『青天を衝け』では竹中直人さんが演じていました。凄いインパクトです・・。
橋本佐内は『西郷どん』では風間俊介さんが、『青天を衝け』では小池徹平さんが演じていました。佐内(小池徹平さん)が春嶽(要潤さん)の背中を流すシーンもインパクト大でした・・・。
島津斉彬は江戸の薩摩藩邸で生まれたそうです。薩摩藩藩邸は現在の東京都港区芝に。跡地に碑があります。西郷吉之助の書!?。
<参考>
↓東京都港区の観光情報公式サイト。
③奄美大島
島津斉彬が亡くなり、安政の大獄(1858年~1859年)が起こり、吉之助は入水自殺を図り・・といった状況で、3年間奄美大島に住むことに。
当時、二階堂ふみさん演じる愛加那(あいかな)や子供と一緒に暮らしていた住居跡があります。
<参考>
↓奄美大島観光物産連盟HP。
④沖永良部島(おきのえらぶじま)
薩摩に戻って、当時の実権者の島津久光(斉彬の義弟)に、田舎者と言ったり、文久の改革手前の上洛の際に(理由はあれど)久光の指示を守らなかったりで、逆鱗に触れ、島流しに。
その時の牢を再現したものが沖永良部島にあります。
『西郷どん』で久光を演じていたのは青木崇高さん。憎めない味のある久光でした。
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↓再現された牢もあり。
<参考>
↓おきのえらぶ島観光協会HP。
⑤明治維新
囲碁をきっかけにして久光の腹心となっていた大久保利通の尽力でなんとか薩摩に帰還。
当初は幕府をサポートしていた薩摩藩。その軍を現場で率いていたのが西郷隆盛。
そして薩長同盟を経て討幕に。
斉彬時代の江戸での活躍で薩摩藩だけでなく他藩でも名声が知れ渡っていたようで、維新の立役者に。
insearchofjapan.hatenablog.com
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↓小御所会議(1867年)での短刀一本・・・
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↓江戸城無血開城を決めた勝海舟との会談(1868年)。場所は今日の写真。徳川慶喜は寛永寺で自ら謹慎。
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⑥明治新政府
戊辰戦争後は鹿児島に戻っていた西郷隆盛。また、大久保利通に請われて新政府に参加することに。
ここでは廃藩置県(1871年)を主導。岩倉使節団が海外に行っている間は留守政府の実質トップを務めていました。
岩倉使節団が帰国した際に起こった意見相違で下野(1873年明治六年の政変)。
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↓留守政府の中心メンバー
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⑦西南戦争
不平士族に担がれる形で西南戦争(1877年)の反政府軍総大将に。最後は政府軍に敗れ自刃(じじん)。享年49歳。この時の政府の実質トップは大久保利通でした。
<参考>
↓かごしま市観光ナビ。
⑧名誉回復
西南戦争の反政府軍rebel forcesは天皇に歯向かう逆賊rebel。
しかし、勝海舟や政府に残っていた弟の従道(つぐみち)などの尽力で、名誉回復がなされ、逆賊の汚名は解消。時は1889年。憲法が制定された年。
その後上野公園に銅像が立ったのは1898年。西郷隆盛が新政府軍の総大将として旧幕府軍(彰義隊)と戦ったのが上野公園の地であったこと、朝廷の管理地であったことなどが理由であったようです。
↓上野公園の西郷隆盛像。
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<参考>
↓かごしま市観光ナビ
3.コメントと参考英語動画
『青天を衝け』で取り上げられた西郷隆盛と渋沢栄一との接点は3回ありました。
1.一橋家の家来の時。京都で西郷隆盛に豚鍋をごちそうされる。
3.新政府にて。渋沢栄一の小川町の自宅に西郷隆盛が相談事で訪問。
いずれも史実で、渋沢栄一の子息の本父 渋沢栄一 (実業之日本社文庫)にも書かれていました。豚鍋会食は何回かあったようです。こういったことが記録に残っている(記録に残している)のが凄い!です。渋沢栄一。
↓米国東海岸出身のジョンさんのチャネル「Only in Japan」。桜シーズン前3月上旬の上野公園。12:15~13:40西郷隆盛像。
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4.全国通訳案内士試験問題:西郷隆盛関連2問
歴史2019-39:安土桃山、江戸、明治、昭和、熊本、城、人物
2019年(令和元年)の全国通訳案内士筆記試験「日本歴史(問題番号39)」で、「加藤清正、隈本と熊本、細川忠利と宮本武蔵、西南戦争で政府軍の拠点、熊本城で重要文化財となっている部分などの理解」を問う問題がでていました。
↓
西南戦争で熊本城に籠城したのは西郷隆盛軍ではなく政府軍であることの理解が必要でした。
歴史2015-17:明治、東京、鹿児島、人物
2015年(平成27年)の全国通訳案内士筆記試験「歴史(問題番号17)」で、「1877年に開催された第1回内国勧業博覧会を積極的に主導した内務省の内務卿が薩摩出身の大久保利通であったこと」の理解を問う問題で、選択肢として西郷隆盛が登場していました。
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