1862年1月の「坂下門外の変」。その一因「公武合体」。そして、公武合体と増上寺との関係を学んでいきます。
1.きっかけ・情報源
幕末・維新・明治初期をしっかりと学ぼうと毎回見ているNHK大河ドラマ『青天を衝け』。
4回目の日米和親条約、8回目の日米修好通商条約、9回目の桜田門外の変に続き、前回4/18の第10回で出てきた「公武合体」と「坂下門外の変」を取り上げます。
今日の写真と地図
↓増上寺(東京都港区)にある徳川将軍家墓所。ここに公武合体の当事者であった14代将軍徳川家茂公と和宮様のお墓があります。
↓増上寺の位置。
↓増上寺についてはこちら。
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2.学んだこと
①公武合体(1861年~1862年)とは?
尊王攘夷運動を抑え、幕府の権威を高めるために朝廷Imperial Courtとの結びつきを強めようとした政策。
その政策の中心が、皇女和宮様の第10代将軍家茂公への降嫁(こうか。皇族以外の男性に嫁ぐこと)。
1861年10月に勅許(ちょっきょ。天皇の許可)があり、1862年2月に結婚。いわゆる政略結婚political marriageですね。
↓こちらを参照。
②増上寺との関係は?
徳川将軍家の菩提寺として、第14代将軍徳川家茂のお墓だけでなく、その正室であった和宮様/静寛院宮(せいかんいんのみや。家茂公が亡くなられた後の呼び名)のお墓もお隣にあります。
お亡くなりになった際、明治政府からは京都へ戻すようにということだったそうですが、和宮様のご遺言willで家茂公のお隣にとなったようです。
増上寺には和宮様ゆかりの茶室「貞恭庵(ていきょうあん)」もあります。
↓増上寺のHP。
↓増上寺境内の徳川将軍家墓所。左奥が家茂公。その手前が和宮様のお墓。
↓和宮様のお墓。
↓徳川家茂のお墓。
↓増上寺境内の「貞恭庵」
③坂下門外の変(1862年)
公武合体政策を推進していた老中:安藤信正が江戸城の坂下門外で、水戸藩士らに襲撃されattacked、負傷した事件です。
起こったのは1862年1月。
現在の福島県いわき市ゆかりの人物で、松ヶ丘公園には銅像があります。
<参考>
↓福島県についてはこちら。
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3.コメント
大河ドラマ『青天を衝く』のお陰で、覚えにくかった徳川3将軍の名前が俳優さんの顔と一緒に頭に入りました。
第12代徳川家慶(吉幾三よしいくぞうさん)、第13代徳川家定(渡辺大知わたなべだいちさん)、第14代徳川家茂(磯村勇斗いそむらはやとさん)。
馴染みのなかった坂下門外の変も、どんな事件か理解することができました!
4.全国通訳案内士試験:公武合体と坂下門外の変関連
2019年(令和元年)の全国通訳案内士筆記試験「歴史(問題番号14)」で、「坂下門外の変と公武合体のそれぞれの概要」についての理解を問う問題が出ていました。
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